p氏の異常な愛情 または……

映画とか趣味とか色々。

親御さんに読んで欲しい中古のゲームと買い与え

 お久しぶりです。書きたいと思った事があったので久しぶりに筆を取りました。

発端はこちらのツイート。

 さて不肖p、疲れると古本市場やゲオみたいな中古ゲーム屋さんに赴いては無数のタイトルの山に埋もれる事を良しとする性分がございます。気になっていたタイトルや知らないタイトルを手に取ってはパッケージを眺め、買うでもなくそっと棚に戻す。この一連の動作が大好きなのです。きっと子供の頃に電気屋さんに行った時、目の前にたくさんのソフトがあった、あのわくわくする原風景をなぞっているのでしょう。大人になれないな、なんてにへらと笑う一コマです。

 閑話休題。ここ一月くらいの多忙につき心労が祟った私は、刺激の少ない、のんびりとしたゲームを探しに古本市場へ通っておりました。

▲こんな具合

 あれでもない、これでもないと悩みながら、でもその過程を楽しんでいるとふと声が聞こえてきます。

「お父さん、うちにポケモン無いから買いたい!ポケモン!」

  どうやら子連れの様で、ふと目をやれば父と子が二人。微笑ましい光景でした。お子さんの方はゲームを嗜むのか、アルセウスいいな!でもソードもいいな!あっこっちにカービィある!とはしゃぎながら中古の棚に目を輝かせています。幼い頃の私はあまりそういった事を口に出さない子供ではありましたが、ゲームソフトの棚の前に行った時、本当に心が躍った記憶を思い起こさせるには、それは十分でした。

「これだったらママとも遊べるかな?」

「あんまり難しいの買ったら遊べないぞ。」

  和やかな会話が聞こえてきます。一家みんなでゲームする仲の良い家庭なのかなぁ、だとか。楽しいよね、ゲーム選んでる時間。僕もそうだったよ、だとか。会話の節々に聴き入りながら色々な事を考えつつ、私も棚漁りを続けます。

 しばらくすると「じゃあこれにする!」と声が聞こえたので私はちらとそちらを見ます。楽しそうにしていた彼が選んだ一本が何だったのか、とても気になったので。彼の手にあったのは『ポケットモンスターソード+エキスパンションパス』でした。

 けれど、その選択を目にした時、私はひどく頭を抱えたくなってしまいました。ここで冒頭のツイートへと回帰していきます。そう、ポケモンを買うのであれば、あと4週間すれば最新作の『ポケットモンスタースカーレット・バイオレット』が発売されてしまう。

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 この事実があった上で、今彼がそのソフトを買ってしまうのは本当にベストな選択であるのか、私の中にわだかまりが生まれます。

 もし彼が、学校でポケモンが流行っているからその話題に加わりたくてポケモンを欲しがっていたらどうしよう。学校の子ども達が『ソード&シールド』を数年前に買っているのであれば、遠からず『スカーレット&バイオレット』へと乗り替えていく事は想像に難くない。みんなは最新作で遊んでいるのに、自分は一世代前の古いゲームで遊んでいるから微妙に話についていけない。夕暮れ、友達の家からの帰り道。横で見ている楽しかったあの時を反芻して、でも自分の家にはそれが無くって。そんな羨望と哀愁をないまぜにした感情を抱えて自転車を走らせる。それは後から見れば懐かしい思い出にはなるのでしょうが、その一時はとても寂しい事でしょう。

 勿論、『ポケットモンスターソード』は初めて触れるポケットモンスターシリーズとして素晴らしい体験ができるゲームです。主旨から逸れたガラルの冒険についてここで詳しく語る事は避けますが、一人で遊んでも楽しい事は約束できます。ですが、一人で遊んでいて楽しい事と今誰かと一緒に同じゲームで楽しむ事。それとこれとは楽しみの種類も質も違うではありませんか。

 子どもにとってゲームは高級品ですし、そう易々と次から次へ買って貰える訳ではない。それ故に、買って貰ったその一作が褪せない記憶の1ページだったり、人としての根っこに関わる事があるのです。私はゲームが大好きです。幼い頃からそれらを通して得た記憶や情緒が、決して小説や映画に引けを取らない大切な宝物だと胸を張って言える程度には。だからこそ、財布の紐を握っている親御さんには、ゲームという媒体がそれ程の財産になり得る事についてもっと自覚的にあって欲しいし、何が起こるかを考えて一作を子どもと一緒に選んであげて欲しい。その一作を通して得た記憶が子ども自身に何を経験させるのか、買う前に一歩だけ立ち止まって考えてみてあげてください。

 

 こうして膨れ上がっていくお節介な思考は、あわやその子連れへと「買うのあともう少しだけ待ってあげてくれませんか?新作、もうすぐ出ますから。」と話し掛ける一歩手前まで私の事をせっつきます。 

 しかしながら、今の私は店員の印であるエプロンも何も付けていない、たまたまそこに居合わせただけの中古ゲームを探しにきたオタク。彼の住む家の教育方針がわからなければ、買いに来た事情も何もわからない。あんなに楽しそうな彼の選択に水を差すのも申し訳なければ、見ず知らずの子連れに話し掛けるのも不審な話で。

 

その場はただ、見送るのみでした。

 

 それでは皆様並びにいつかの彼へ、良き日々を。

ユナイトを、やりましょう。

 お久しぶりです。

 2週間ほど前からあるゲームにかなり執心しておりまして、暫くの間ブログを放置してしまいました。

 プレイしておりましたのが、こちら。

 ポケモンユナイト。

 遊び半分で始めたものの、割合真面目にハマってしまいました。知らない間にサーナイトの着せ替えに課金してみたり、もちもののレベリングの為に課金してみたりと結構やる気を出してしまった訳で。

 ランクもなんだかんだでエキスパートまでは上げたのですが、そこを区切りに少し熱が落ち着いてきたので、一つこのゲームは楽しいぞと紹介記事でも書いてやろうという心算です。

▲エキスパート昇格時のツイート。この頃にはもうランクマッチに疲弊していました。

 プレイスタイルの話をゆる〜く。

 私の場合、ランクマッチは基本的に野良(自動でランダムに選ばれる味方とのプレイですね)でワタシラガをメインに、気が向いたらサーナイトやカイリキーを選んで使っていました。ワタシラガは勝率がおおよそ6割、サーナイトとカイリキーは5割程度です。悲しいかな、きっと私はサポートやヒーラーしかできない。少し前のアップデートで愛するワタシラガがナーフ(弱体化)されて辛酸を舐めたりもしましたが、そういったゲーム内情報のあれこれはまた別の話。 

 先にゲームについての簡単な説明を。このゲームは所謂MOBA(マルチオンラインバトルアリーナ)と呼ばれるジャンルに属しています。

▲MOBAに対するわかりやすい解説記事。

有名どころであれば「LoL」こと『League of Legends』や先の記事で出ていた『Vainglory』辺りの名前が挙がる事でしょう。それぞれが役割をある程度定められたキャラクターを選び、その試合の中で自分に与えられた役割を遂行しつつチームプレイで勝利を目指す、というゲームスタイルが特徴的です。オールラウンダーなキャラクターはそう多くなく、例えば攻撃に特化したキャラクターであればHPが少ない為一人で戦闘を挑めば返り討ちに遭ってしまったり、逆にHPが高いキャラクターであれば攻撃力の低さ故にいまいち決め手に欠けてしまったりと、自分が扱うキャラクターの特性を理解した上で味方との連携した立ち回りが求められます。上記の理由から、キャラクターやゲームに対してある程度の知識を身につける必要がある為、その点が少しマイナスに作用して、日本ではイマイチ流行していないという印象は受けます。

 しかしながら、その敷居の高さを軽々と飛び越えさせるのが『ポケモン』というアイコンなのでしょう。原作で慣れ親しんだキャラクターを使える、という「扱う側」としてのプレイヤー目線での嬉しさもさることながら、そのポケモンに対する先入観が役割の特徴と一致しており、少し調べるだけで初心者でも立ち回りが理解しやすい。ボタンひとつで大きな技を繰り出せ、ルールや要素が比較的簡単である事も敷居をぐっと下げているのでしょう。なお、ここまで偉そうに語ってきた私もお恥ずかしながらMOBA初心者です。けれども、そのわかりやすいゲームデザインが上手く作用した結果ここまで熱中したのだと思われます。

ポケモンユナイト公式の紹介ページ。既に20種の面々が名を連ねています。貴方のお気に入りもいるかもしれません。

 さてもさてもこのゲーム、プレイ中の絵面が楽しい。お互い選んだ5匹のポケモンが集団戦をする時、画面内はエフェクトだらけで賑やかな事この上ありません。ピカチュウであれば十八番の10まんボルトを落とし、リザードンならかえんほうしゃで相手のポケモンを燃やす。プクリンが歌いながら戦場を駆け回っている後ろからゲッコウガはみずしゅりけんを投げて相手をKOしたりと、本家のターン制ポケモンバトルとはまた異なった形で「今、リアルタイムでポケモン同士がバトルしている」という実感が確かにあります。

▲実際の集団戦。後から見るとごちゃごちゃで何が起こってるかわからないレベルですね。

 余談ながら、私がメインで使っているワタシラガは味方にシールドを付与したり、体力を回復したりする事が主な役割です。この子を使っている時に火力を出す役割の味方や、耐久力の高さを活かして前線を維持する役割の味方を倒されない様に支援しつつ、集団戦をきちんと勝ち抜けた時の気持ち良さが堪らない。安心して戦って貰ったり、今にも倒されそうな味方を延命したりと、ダメージを出す事とはまた違った形での自陣への貢献が病みつきになっています。オンラインではサポートが常時不足している様子なので、もしこれを読んだ貴方が少しでも興味を持たれたなら、是非是非お手に取って頂ければ。

▲ワタシラガの公式紹介PV。可愛い顔こそしているものの、弱体化前はゲームをかなり牛耳ってました。

 パーティープレイでの楽しさについてもお話ししておきましょう。このゲームは自陣営5人までを自身のフレンドから招待して、固定でチームを組んでプレイすることができます。私の場合はdiscordのサーバーで人を集めて、通話を繋いでプレイする事が多いのですが、見知った方々とワイワイ騒ぎながらプレイするのがこれまた楽しい。突然相手に奇襲をかけられて動揺したり、攻め気が高い時の押せ押せムードを共有したり。個人同士の連携要素が強いゲームだからこその一体感がある盛り上がり方は、オフラインゲームを多めにやっている人間としてはなかなか目新しい物でした。よく遊んでくださる方にはこの場を借りて感謝を。

 ポケモンユナイトについて、私が紹介するならざっと以上です。面白そうだなと思って頂ければこれは幸い、興味があればレッツユナイト!という形で締めさせて頂きます。

 

 

 

 さて、ここからは少し個人的な意見になるので、興味が無ければ読み飛ばして頂いて構いません。

 ここまで評価してきましたが、このゲームについてある種の閉塞感がある事について、私は少し寂しさを覚えています。500戦ほどプレイしましたが、目立って言える事としてゲームの展開が一様である事は認めざるを得ないでしょう。決まった時間に決まった場所に集合し、決まったキャラクターを確実に倒す事が勝利に対して最も有効である、というセオリーがサービス開始3週間で確立されており、現状これを覆す戦略はプレイヤー間で編み出されていません。従って、相手も自陣もそれを理解している前提で常に同じ戦略を採り、同じ展開を繰り返し続け、その最中に自陣がミスをして不利になった際、既に降参ムードが漂ってしまう事が傾向として存在します。また、そのセオリーに沿わない人間を「理解出来ていないプレイヤー」として糾弾する風潮が形成されつつある事も事実でしょう。(もっとも、ゲームに対してある程度の知識が求められるMOBAにおいて、そういったプレイヤーが糾弾される事自体は理解出来るのですが)

 繰り返しにはなるものの、ゲームの展開やプレイスタイルについて、多様性や工夫の要素がそれ程ないという致命的な要素をこのゲームは抱えているのではないのかな、と私は思うのです。ルールや要素を簡略化した事がある種裏目に出たとも言えるのではないかとも。もっとも、キャラクター人気で当面の間はコンテンツとして生き延びられるとは思いますし、サービス初期である以上、私の様な初心者にもわかりやすいゲームである事は非常に大事でしょう。けれども、ゆくゆくはゲームバランスそのものに対する見直しが為されない限り、いずれゲーム展開のマンネリ化に飽きられてしまうのではないか、と慮る次第であります。私としても現在非常に気に入っているゲームなので、末長く生き延びつつ、日本にMOBAを普及させる足掛かりとして頑張って頂きたい訳で。いつの日かの大規模アップデートを心待ちにしております。

 随分と語りましたが、妙にやり込んだせいで偶然問題点を見つけてしまっただけかな、と私は割合軽く考えております。このゲームは『ポケットモンスター』というコンテンツに少しでも慣れ親しんだ事のある人間であれば、軽く触ってみたり、好きなポケモンを使ってみるだけでも十二分に楽しめるかと。本編では味わえないスピード感や、ごちゃごちゃしたお祭りの様な騒乱を体感するのは一興です。兎にも角にもレッツユナイト。

 それでは皆様、良き日々を。

『マトリックス』の話とか

 季節の話を少ししましょう。弊ブログを開設した頃にはあまり聴こえなかった蝉の音ですが、最近よく聴こえる様になってきました。夏を感じますね。1週間程度でこうも変わるとは。

 どうでしょう、皆様は夏がお好きですか?私は苦手です。苦手な理由については文頭を借りて訥々とお話しすると思いますので、今回はへえ、こいつ夏が嫌いなんだ、程度に納めて頂ければ。

 さて、ようやっと文頭に数字ネタを持ってくる呪縛から解放されました。5回目でぼそりとこぼしていましたが、割合数回やれば飽きるものですね、これが。

 


 うだうだと前置きを書いても仕方がないので、本日のテーマを。

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 映画。

 


 「呪縛からの解放」というワードを用いたので、この辺りをテーマに一本紹介しましょう。

 呪縛と言えばエヴァで、そこからの解放といえばさしずめシンエヴァじゃあないのかね、とオタク文脈思考回路で一挙に繋げる事は可能です。けれども、エヴァ一辺倒のオタクと思われるのも癪なのでここは少しズラさせて頂いて。

マトリックス


 SF映画、並びに映像技術のエポックメイカーとしては金字塔的な作品ですね。特に有名な例の銃弾を回避する演出、もといバレットタイムは『AKIRA』の横付けバイクなんかと肩を並べる程に映像作品でオマージュされているイメージがあります。

 いつも通り作品の紹介をしておきましょう。今回は第1作目についてのみ言及するつもりなので、そちらだけ。

 『マトリックス』は1999年に公開されたSFアクション映画です。監督はラリー=ウォシャウスキー氏、並びにアンディ=ウォシャウスキー氏。

監督についての余談も少々。2008年に兄であるラリー氏は性別適合手術を行い、ラナ=ウォシャウスキー氏に改名。弟であるアンディ氏も2016年に同手術を行い、リリー=ウォシャウスキー氏と名乗る様になりました。この為、当時は兄弟と呼ばれていたウォシャウスキー両氏ですが、現在は姉妹と呼ぶファンが多いですね。

 

 主演はご存知キアヌ=リーヴス氏。現在でこそ『ジョン・ウィック』での配役などによって「渋くてカッコいい壮年の仕事人」的なイメージが強い同氏ですが、映画撮影当時は35歳。彼の扮するネオことトーマス・アンダーソンにも若さが垣間見えます。


 本編の話に移りましょう。昼は会社員、夜はウィザード級ハッカーという二つの顔を持つ男、ネオ。彼はしばしば今自分がずっと夢を見ているのではないか、という謎めいた感覚に悩まされます。しかしながら、それもそのはず。なにしろ彼が生きていると思っていた世界とは、作中において「マトリックス」と呼ばれる、人間をバッテリーとして稼働するコンピュータによって構築された"仮想の現実"だったのですから。

 とある一通のメールからその"真実"を知る機会を得たネオ。彼はメールを送った張本人であり、彼の事を救世主と呼ぶ男、モーフィアスやその仲間達と共に、マトリックスに囚われた人類を解放する戦いへと身を投じていきます……といったところが粗筋でしょうか。

 私はSFというジャンルを比較的好みますが、初期設定の絶望感に関してこの作品は指折りでしょう。機械が人間を支配し、それに対して人間が抵抗する、というのは『ターミネーター』然り、度々見られるシチュエーションではあります。しかしながら、機械が支配するだけでは飽き足らず、人間そのものを資源として利用している物はなかなか見ないなあ、などと思ったり。本編30〜40分にかけて"現実"でのマトリックスの様子が描写されていますが、かなり良い感じに生理的嫌悪感を煽ってきます。想像してみてください、周りを節足動物じみたマシーンがカサカサ動き回る中、自分自身は培養液の中で身体中にホースを繋がれてコンピュータの養分にされている姿を。

 設定について少し別の話も。バッテリーとしての人間に仮想の夢を見せる、という状態について「水槽の脳」を思い浮かべられた方はきっと多い事でしょう。恐らく誰しも14歳くらいで一度この辺りの発想に至っているものと思い込んでいるので特に内容について詳細な説明はしません。要は自分の見ているものは全て脳に送り込まれた信号ではないのか、と疑い続けるだけの話なのですが。しかし、この「水槽の脳」という状態だからこそ出来る行動のあれこれについての発想は、見る人をとても童心に帰らせてくれる事でしょう。例えば、作中では「今いる現実は見せられている架空のものであるという無意識下での認識」(これを作中では「心を解き放つ」と呼んでいます。)を体得する事で、物理法則や身体の限界などを無視した行動も可能になる、という考え方が出てきます。どうでしょう、この考え方。俗に言う中二病だった頃に一度くらい考えてみた事はあるんじゃないでしょうか?そういった発想が好きな方ならば、まず間違いなく見ておくべきでしょう。満足度は保証します。

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出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/水槽の脳

 

 話を変えましょう。この作品においては哲学や宗教に関連する要素がそれなりの頻度で現れます。哲学に関しては勿論先述の「水槽の脳」然り、「自身の認識を疑う」という懐疑主義的な要素が、設定や、人間側の登場人物がマトリックスに対抗する為の根幹として置かれている事が窺えます。そして、宗教的要素。簡単に具体例をピックアップしておきましょう。シナリオに関わらない浅いところから始めるならば、まずはネオを救世主と呼ぶモーフィアスについて。モーフィアスの綴りは「Morpheus」なのですが、これはギリシア神話の夢の神、モルペウスと同じ綴りですね。マトリックスにおける架空世界の正体がコンピュータに見せられている夢であることを踏まえれば、その縁を踏まえた上でのネタとして採用される事も納得が行きます。

 続けて、こちらはやや映画の展開についても関わるものですが、キリスト教。そもそも主人公ネオが救世主と呼ばれる辺りから既にその要素はちらほらと見えてはいます。他にも、モーフィアスの所有するホバークラフトネブカドネザルを弄ったと思しき「ネブカデネザル号」であったり、ヒロインの名前がトリニティ(三位一体)であったりと、割合わかりやすく要素が散りばめられていて。少しキリスト教について知っているだけで作品に対する解像度が上がる気がして面白いです。余談ですが、史実においてネブカドネザル2世はバビロン捕囚でユダヤ人を捕らえる側だった訳ですが、これをコンピュータから解放する側の船の名前とした理由については少し疑問を抱いています。折角ならキュロス号みたいな名前でも良かったのでは、なんて事をたまに考えます。

▲下手な歴史サイトより個人的に信用している世界史の窓からバビロン捕囚を。高校生の頃よくお世話になりました。

 キリスト教的要素について若干のネタバレを交えつつもう少し深く。作中で「救世主」と呼ばれるネオですが、彼は「自身が救世主である」と自覚した辺りからその名の通りの行いを可能にする能力を手に入れます。早い話が聖書の救世主と同じく、マトリックス上で「奇跡」を用い始めるのです。具体的には時を止め、空を飛び、そして聖書の救世主と同じく、あるものを一度克服します。この文脈で書けば何が起こるか概ね予想は付けられそうですが、一度ご覧になってからなるほどね、という顔をして頂きたく思います。

 さて長々と語って参りましたが、この作品、正直ラストの30分程度を見ればそれなりに観た気になってもいいんじゃないかな、なんて私は思っています。勿論、些か暴力的な物言いであると自覚はありますが。私としては哲学なんかも絡めつつ、ネオが救世主として目覚めるまでの物語である序盤は捨て難いです。しかし、バレットタイム然り、画的に映えるシーンはほぼ全て後半30分に集約されているんですね。(もっとも、序盤の鏡に体が飲み込まれるシーンは今見ても色褪せない映像なのですが)言い換えるならば、前半1時間半は後半の画的に映えるシーンに持っていく為の丁寧な積み重ねと言ってもいい。

▲鏡のシーンを含んだ予告編。おおよそ30秒時点くらいです。

 事実、積み上げてきた1時間半を踏まえた上での後半30分のカタルシスは目を見張るものがあります。自分が本当に救世主か、と悩むネオが、とうとう覚醒して縦横無尽に暴れ回るシーンの爽快感たるや。キアヌ・リーヴス氏には銃と暴力が圧倒的に似合う事は『ジョン・ウィック』シリーズで証明済みではあるものの、『ジョン・ウィック』より先にそれをやった『マトリックス』は、そういう意味でも先取りをしていたと言えるのかもしれません。

▲犬を殺された殺し屋が大暴れ。ストーリー的には薄く感じるものの、映像が分厚すぎる。

 

 記事を公開しておいてなんですが、近く『マトリックス』には4作目が出るそうで。これを機に一気に見直してみるのも良いかな、とか。

 それでは皆様、良き日々を。

『文体練習』で本当に文体練習をしてみよう

 7回目に漕ぎ着けた。エヴァンゲリオン、というテーマを扱うに際して持っていかれる気力が想像以上だったからか、完全な連続更新とはいかなかった事は誠に遺憾である。しかしながら、毎日雑記帳へと向き合う習慣がついた事は我ながら評価すべき点であろう。終わりよければ全て良し。滞る事なく本日も更新したい次第である。


 本日は割合早めに主題について述べておこうと思う。

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 本。


 もう気がついているとは思うけど、今回の記事で僕はあからさまにある物を変えている。簡単に言うなら、文章のテイスト。要は文体って奴だ。文体。いっぱしの物書きである僕とはいえ、案外これには拘っているんだ。名は体を表すと言うけれど、文体についても同じことが言えるんじゃないかなって。文章を見れば案外わかると思うんだよ、その人の読書遍歴とか、性格とかさ。

 さういふ訳で、今日はちよつと趣向を変へて、文体で手遊びをしながら作品の紹介をしたく思ふ。何、狂乱したといふ訳ではない。これも作品紹介の前振りの一つである。

 そんなこんなで私が今日紹介するのは、『文体練習』。フランスの小説家、レーモン・クノー氏が執筆した小説ですね。後述しますが、正直なところ、この作品は小説というより実験的作品と呼んだ方が正しいのかもしれません。しかしながら、文章が好きな方ならば、きっと気に入る事でしょう。

 作品と作者については敬意を表する為に、一時的にいつもの文体に戻しました。続けてお読みください。

▲文体練習。この記事のノリをもっと丁寧にやっています。


 説明を続けるわね。『文体練習』の内容自体は、ざっとこうよ。

『ある日、バスのなかでソフト帽をかぶった26歳くらいの男が隣の乗客が押してくるので腹をたてるものの、その口調はたいした剣幕ではなくて、別の席があくとそそくさと座る。その2時間後、サン・ラザール駅前のローマ広場でその男をまた見かけた。連れの男がいて「君のコートにはもうひとつボタンがいるね」と言っているのが聞こえた。』

 どうかしら、小説と言うにはあまりにどうでもいい内容でしょう?けれどね、この本の面白いところはその書き方であって、内容ではないの。クノー氏は、この内容を全て異なる99通りの書き方によって表したのよ。どう?面白くないかしら?


 この作品についての大まかな内容です、以上が。これでご理解頂けた事でしょう、私が今回文体で遊ぶ理由について。つまり、私にとっての文体練習になっている訳です、この記事が。解説を加えるならば、これは文章ですね、倒置法だけで書く。正確に扱えているのかどうかについてありませんが、絶対的な自信は。余談ですが本編にあった気もします、この書き方は。

 文体を用いた。6つ用いた。文体を変える。これを続ける。続ける事は難しい。アイデアは有限だ。限界が来る。3000字は書く。私は諦めない。

 しかし、こうも転がる様に車を乗り換える様な事を日が昇って沈むまでの間にやっていると、意識の主体たる存在の、文章における書き癖を人混みの中に落としてしまった様な気分になってくる物で。組み上げてきた積み木のお城を笑顔でひっくり返して遊ぶ様な事だと分かっていても、案外こうやって文章をしたためていると、どれが贋作でなかったか、という事をついうっかり記憶の彼方にやってしまいそうな気もします。

 ところで、序盤はご理解頂きやすい文体の改変を行っておりましたが、説明近辺から突如方向性を変えました事を深くお詫び致します。皆々様におかれましては、ここまでお付き合い頂けていらっしゃいますでしょうか。現状半分近くですので、残り半分程お付き合い頂ければ恐悦至極の限りにございます。

 だから……その……なんと言いましょうか……文体ですね……。はい、文体の話を……いや本当に文体の話でいいのでしょうか。やっぱりもっと他の話をしたほうが……?でも私がしたいのは文体の話で……だから……続けます……

 あたしゃさっきも言ったんだけどね、文ってのは読みさえすれば人となりは分かるもんさ。例えばそうだねえ、あんたにも経験があるだろう?この前まで読んでた作家の文章がついつい移っちまうとかさ!作家ってのは人を写す鏡だよ。その作家を選ぶなら、その人がどう言う人かってのも自ずと見えちまうもんさね。

 もちろんだけど、あたしゃそれだけで言ってんじゃないよ。そうさね、丁寧な文章を書く人はなんだか性格も丁寧な気がするんだねえ。こらおよし!丁寧じゃない文章を書く人が性格が丁寧じゃないなんて言った覚えはあたしゃ無いよ!

 話、続ける。私、話、する。私、文体、独特、言われる。他人、私、文体、見た。他人、私、言った。見る、お前、分かる。私、嬉しい。再度、私、言う。私、物書き、端くれ。私、文体、気がかり。私、それ、個性、認められる。これ、私、本当、嬉しい。嬉しい、事、嬉しい、言う。恥ずかしい、山々、勝つ、嬉しい。

 貴方、文、書く。貴方、癖、ある。貴方、個性、見つかる。貴方、それ、抱える、生きる。それ、素晴らしい。文、ツール、使える、誰でも。敷居、低い。自己表現、簡単、お勧め。

 たくいつ して きた の も みめとる の ですが、 あと、 2 しるゅい で 15 しるゅい に なのるで いま しらばく おきあつい くさだい。

 けそいつ に やる には ななかか はそっうょりく も たょりいく も ひよつう な きじ を けかいく してしたまっな、と くょしう して います。

 そろそろ頃合いだ。そう思った僕は、総決算への準備を進める。これまで書いたものは、所詮僕のお遊びに過ぎない。ここまで付き添ってくれた読者がいるとすれば、きっとその人達に僕は目一杯の感謝を伝えなければならないだろう。懇々と打ち込んできたこの文章が誰かの目に触れれば十分、いや、十二分に嬉しい。本当なのだ、嘘偽りはない。最後に一つ、とびきり仰々しい文体を用意してこの文章を締めくくろう。そこからは解説だ。

 おお、おお、賢明なる読者よ!この欠落した穴を埋める為だけに書かれた文章を尚も読むか!その根気と親切味を讃え、今一度感謝の念を述べよう!ありがとう!ありがとう!諸君のゆく道に幸あらん事を!明日も生きて、良き日々を!


 という訳で、いい加減文体を元に戻そうかと。最後に先述通り、大まかな解説です。箇条書きにしておくので、なるほどそういう意図だったのね、的に消化して貰えれば。

・文語体。筆者はレポートとかだとよく使ってます。

・一人称主観(男) ライトノベルとかにいそう。

・近代純文学っぽい言葉遣い。自信がないので短いですね。

・いつものやつ。いつものやつです。

・一人称主観(女) 個人的にダンガンロンパの霧切さんっぽいです。

・倒置法。本文通り。

・文章のヨクト。主語と述語だけで作ったつもりです。

・名詞を使わず、比喩だけで文章を書く。どうしようもないものはそのまま使いましたが。

・敬語。超丁寧に書いたつもりです。間違ってたらつらい。

・自信がない人。「文体の話を続けます」を傘増ししました。

・話言葉(老婆) 千と千尋の湯婆婆みたいになってますね。

・日本語のヨクト。単語だけです。

・タイポグリセミア。2ちゃんで流行りましたよねこれ。

・いつものやつ(小説)。小説用の文体です。下の記事でいっぱい読めます。

・なんなんでしょうねこれ。疲れて勢いで書いた感じは否めないです。ツァラトゥストラとかにありそう。

ネタバレ抜きで『Ib』の紹介とか

 6回目。幾分ブログを書く事にも慣れてきたもので、昼日中に次は何の記事を書こうかしら、と考える事が増えました。自分がこれまで接してきた作品や、面白いなと思っていた事。勿論プラスの印象のみではなく、心に爪痕を残してきた作品だって。そんな中で何なら書けるか、何なら書いてみて面白いか、頭の中で記憶と照らし合わせた問答を続けます。作品達に想いを馳せる事は、目まぐるしく変わる日常の中ではついつい置き去りになってしまいがちです。このブログの開設は、彼らを思い出す契機として十二分に悪くなかったでしょう。

 きっと、貴方にとってもそんな作品達はいるはずです。不意に気になったら、たまには思い返してみてあげてください。作品も作者も喜ぶはずですから。

 


 頃合いですので本日のテーマを。 

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 ゲーム。

 


 私が本や作品について、しばしば擬人法的に記述する事があるのはお気づきの事かと。もっとも、これ自体は作品は作家自身の内側について切り離された断片であるから、という私個人の思想による所ではありますが。

 ではもし、それらが本当に意志や精神を持って行動するとしたら、どうでしょうか。そんなテーマについて取り扱ったゲームを今回は紹介します。


『Ib』


 例によって軽く作品の解説を。『Ib』は2012年にkouri氏によって制作されたフリーホラーゲームです。2014年にいくつかのEDを追加したVer.1.07が公開され、現在も作者ホームページから無料でダウンロードが可能となっております。(※Windows10では動作が不安定な場合があるとのこと。悪しからず。)

 


▲作者様公式サイト。

 


 まずはお恥ずかしながら、私の思い出話にしばらくお付き合いください。

 私がこの作品を最も遊んだのは、間違いなく高校生の時でしょう。当時私は文化系の部活に所属していたのですが、なんとまあ恵まれた事に、部室にはPCが設置されていた訳です。しかも、部室にはなかなか人が入って来ない。高校生、オタク、PC、半密室。これだけの条件を揃えられたオタク達が何もしないはずはなく、各々が家からフリーゲームや同人ゲーム、挙句には格ゲーと専コンなんかも持ち寄って遊んでいました。

 そんな中で私が持ち込んだ作品が『Ib』でした。

 ジャンルを問わず面白いものには貪欲なオタクが多数だったので、しばらくすると部室ではほぼ常時タイトル曲の『記憶』が再生される事態に。丁寧な作りにのめり込んだオタク達は全ED、加えて全ての収集項目の回収へ向けて熱意を燃やします。そうやって放課後、ただひたすらにプレイを続けました。一昔前の、懐かしい日々です。 

 今尚多くの人の心を掴んで離さない『Ib』。最初はその魅力の一端を担っているであろう、ビジュアルや雰囲気についてお話ししましょう。こちらの画像をご覧ください。

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 なんともまあ蠱惑的なものでしょう。暗闇の中、一人どこを見るでもなく佇むどこか暗い表情の少女。整った服装や、襟元に結われたジャボは彼女が裕福な出立ちであろう事を想起させるには十分です。そしてこの絵全体の雰囲気、とでも言いましょうか。少女を描く少しくすんだ色遣いも相まって、実にアンニュイな雰囲気を醸し出しています。オタク的な言い回しを敢えて用いるならば、大正義。『Ib』しか勝たんって訳です。

 更に評価すべくは、フリーゲームにしばしば見られる「タイトル画面に気合は入っているものの、実際蓋を開けてみればツクールで作った事がありありとわかる感じになってしまっている」という風潮に全く該当しない事でしょう。つまり、タイトルの雰囲気に惹かれたならば、最後までその世界観にどっぷりと浸って遊ぶ事ができます。これも本当にありがたい。

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出典:https://kouri.kuchinawa.com/game_01_ss.html

▲実際のプレイ画面。タイトル画面の雰囲気そのままにゲームをプレイできる様子が確認できます。

 

 さて、そのアンニュイな雰囲気を保ちつつ、ホラーゲームというテーマを演出するに際して選ばれた舞台は美術館でした。

 架空の作家、ワイズ=ゲルテナの展覧会が開かれている美術館へ、少女イヴが両親に連れられてやってくるシーンからゲームは始まります。展覧会を一人で見回っていると、突如の停電。そこに突然現れた赤い絵の具、或いは血で描かれる「おいでよイヴ」の文字に誘われる様にして、彼女は一人美術館の奥深く、地下へと足を進めていく……

 以上が大まかな導入です。 

 しかし、この美術館という舞台設定は非常に良いチョイスだな、と思うもので。想像してみてください、もし仮に、幼い頃に連れて行かれた美術館で一人ぼっちになってしまったら。きっと言い知れない不安感に襲われる事でしょう。自分より大きな彫像や、至る所にかけられた絵画の目線はじっとこちらを睨んでいる様にすら感じるかもしれません。『Ib』が今一度私達に教えてくれるのは、そんな幼心の心細さと、包み込まれる様なじんわりとした恐怖です。また、同じく美術館に迷い込んだ登場人物を除いて、このゲーム内に出て来るキャラクターは全てゲルテナの作品群である、という形でも設定は活かされています。

▲余談ながら、幼心に「美術館」という物に対するある種の恐怖を覚える原因になった作品。確かに今見てもちょっと怖い。

 作品群に対する凝り方にも目を向けておきましょう。登場する作品は名有り、名無しのものを含めておよそ90種類。それら全てが作者の手によって一から生成されていることが推察されます。更にどれ一つをとっても個性的で鑑賞に堪える作品達であり、正直なところ、アートブックがあれば欲しい!と思ってしまう程に完成度も高い。このゲームにおける収集要素として全ての美術品についての情報を集める、という要素がありますが、作品にのめり込むほどついつい集めたくなってしまうものです。

 この集める要素に対して、ゲーム的なシステムと設定の両立が為されています。先述の通り、主人公たるイヴ本人は少女です。ですから未だ知識に乏しいところがあり、彼女一人ではしばしば読めない漢字に出会う事があります。その為、難読漢字が含まれた作品は彼女一人では収集できないシステムになっているのです。それらの作品は美術館で出会う他のキャラクターと共に調べる事で回収出来るのですが、これがまた秀逸なシステムだな、と。この要素がある事で自身が操作しているキャラクターは少女であって自分自身ではない、という事を印象付けてくれると共に、このゲームはあくまで彼女の視点で進んでいる事を理解させてくれるのです。そしてその事実を確認した時、今自分は誰もいない美術館を子供1人で探索しているのだ、という不安がやって来ます。


 少し話は変わります。私の考えですが、ホラーゲームのキャラクターはなるべく恐怖に対して抵抗する力を持って欲しくない、と思っている節があります。私は今個人的に『BIOHAZARD RE:2』をプレイしているのですが、屈強な成人男性を操って敵MOBに対して容赦なく発砲や攻撃が出来る事の安心感たるや。残念な事に私の様なゲームプレイヤーは、襲いかかる恐怖に対して抵抗する力を得た瞬間から恐怖から無力な逃亡を図る事を完全に取り止め、いかにしてそれらを退け、相手を倒していくかという思考へと切り替わってしまいます。

 その点『Ib』は操作キャラクターが少女である事、また、「美術館のルール」とされる暴力的な行動が制限される縛りによって、襲い来る作品群に対して成す術もなく逃げ回る事を強いられるのです。これもまた、このゲームの設定とシステムを両立させた素晴らしい点と言えるでしょう。

▲宣伝がてらの『BIOHAZARD Re:2』公式ページ。顔のいい屈強な成人男性と顔のいい女子大生がゾンビや生物兵器相手に大立ち回り。楽しいです。


 ネタバレを控えて『Ib』の魅力を語るのであれば、ざっとこんな物でしょうか。内容に言及するのであれば、登場人物同士の関わりや各EDに関する所感など語れる事はまだまだあります。ですが作品の所感はプレイした貴方に初めて持って頂きたい物なので、ここで全てを語り切るのは避けさせてくださいませ。ネタバレは作品の美味しさを損ないます。

 とはいっても、これは建前半分で、このゲームに関して全てを書き切ろうとした場合はたかだか4000字程度で纏めきれる気がしないという私側の都合も多分に含まれてはいます。だからといって1万やそこらも書いていては、いつまで経っても更新ができないし、それは避けたい。なんともまあ、バラしてみるとかなり自分勝手ですね。

 もっとも、作品紹介のネタが切れてきた頃には、ネタバレ付きで作品についての記事を書き始めようという計画も密やかに立てています。ですから、私がこのゲーム内における特定CPなどについて語る様子が見たければ、ネタ切れを願っていてください。きっといつかその日は来ます。


 それでは皆様、良き日々を。

さようなら、全てのエヴァンゲリオンの為に:序

 5回目。そろそろ数字についてお話しするのも飽きてきたのですが、前回お話しした通り1週間までは習慣付けの時期を抜けていないので、7回目までは前書きに引っ付ける心算です。とっとと本文に入りたいのも山々なのですが、そこはご愛嬌。文頭にちょっとした短文を添えるのが手癖なので。時候の挨拶よろしく、置きたくなるのです。

 数字といえば、PV100を越えられて少し嬉しいですね。

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 継続更新、頑張っていきましょう。


 ここらで本日のテーマを。

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 アニメ。


 アニメという言葉を挙げれば、自ずとオタクという言葉が付いてくる、というのは私の偏見でしょうか。しかし、オタク、という名称は随分とカジュアルな言葉になったなと思う今日この頃です。前時代の残り香か、やや卑下的なニュアンスを相変わらず含んでいる事は否定できませんが、それでも「自分はオタクである」と標榜する人が増えているのは事実でしょう。それが「好き」という言葉をストレートに打ち出す事における、ある種の気恥ずかしさを隠す為の仮面なのか、所謂私たちZ世代が風潮として持っている自己肯定力の低さの表れなのかはさて置き。半ば免罪符的に用いられる「オタク」という言葉ありきだとしても、好きな物を発信する人が増えているのはいい事だなと思います。

 さて、私も曲がりなりにとはいえオタクなので気が向けばアニメを見る事がしばしばあります。そんな中でも、根幹を支えていると言って差し支えない作品を一作紹介させてください。タイトルでもうお分かりでしょうし、半ば食傷気味かもしれませんが、いいじゃないですか。好きなんですもの。


 新世紀エヴァンゲリオン。並べて、ヱヴァンゲリヲン新劇場版


 今更説明するのも野暮かもしれませんが、紹介の体で書く以上は作品について少し。

 エヴァンゲリオン、と通称される一連の作品群には大きく分けて3つの形態があります。まず、私達がエヴァ、と言われたときにパッと想像しがちな新劇場版。

 こちらは2007年に封切られた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』、2009年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と続いていき、そして2021年。満を持して公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の4部作で構成されています。総監督は我らが庵野秀明御大、制作は株式会社カラー。実に14年、後述のアニメ版を含むのならば、26年もの歴史を経て全ての混沌とした、壮大なサーガに決着を付けました。

▲公式サイト群です。映像本編はAmazon Prime Videoで見れますので良ければ。

 続いて、テレビアニメ版。こちらは1995年から1996年にかけて地上波で放送されていた、一般に旧劇場版と称される『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』へと繋がっていく物語です。監督は言わずもがな、庵野秀明氏。制作は株式会社カラーが独立するまで所属していた、株式会社GAINAXでした。旧劇場版に関しては、株式会社Production IGも制作に関わっていますね。

▲公式サイトが見つからなかったのでWikipediaです。失敬。映像本編はNetflixで見れます。

 そして最後に、カドカワコミックス・エースから発刊されている「新世紀エヴァンゲリオン」も挙げておかねばなりません。全14巻、作者は貞本義行氏。作者の名から取って、貞本版と呼ばれる事が多い作品です。こちらはアニメ版の公開に先駆けた1994年から『少年エース』で連載が開始され、2009年に『ヤングエース』へと移籍。2013年に連載を終了しました。

 先に謝罪しておきたいのですが、筆者自身は貞本版エヴァを全巻読破しておりません。出来る事なら単行本で全巻揃えたいのですが、何しろ価格が高騰しているもので。愛蔵版を書店で見かけては購入して集めている段階です。ですので、ここからお話しする内容は基本的に映像作品に偏った内容である事を予めご了承ください。ただ、集めた物を読んでいる段階ではありますが、一つ間違いなく言えるのは貞本版の碇シンジは他の映像作品と性格が違う、という事でしょう。それがどのように働くのかはいざ知らず。読了後にまた書くと思います。


 さて、お待たせしました。ようやっとの本文を。「序」である今回は、「エヴァンゲリオン」というシリーズに対する私の考え方についてお話しさせてください。


 話は一旦今年の春頃に遡ります。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の舞台挨拶において、庵野監督ご本人が「エヴァはロボットアニメだ」という趣旨の発言をされ、ファンが騒然とする事態がありました。しばしば用いられる、「エヴァンゲリオンの正式名称は汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオンであるから、あくまでエヴァはロボットアニメではない」というネタとしても愛されてきた決まり文句。これに対する公式からのちょっとお茶目で斜め上なアンサーは、ファンを沸かせるには十分でした。

▲例のインタビュー。 

 しかしこの時、私はこのファンの騒動に乗っかりながらも、先の発言において全く別のベクトルでショックを受けていました。というのも、私はエヴァンゲリオンをロボットアニメではなく、根底の所ではヒューマンドラマとして解釈していましたし、公式もそのつもりで作っているのだろう、と思っていた節があるからです。

 勿論、エヴァンゲリオンという作品がロボットアニメ的側面を孕んでいる事は間違いありません。

 「どこからか飛来する謎に包まれた敵「使徒」と、それに対抗する人類の組織NERV。使徒に対抗できる手段唯一の手段はNERVが所有する兵器、エヴァンゲリオン。しかしそのNERVも決して一枚岩ではなく、実態は人類補完計画を推し進めるべく暗躍する組織だった。」

 この設定をロボットアニメのものではない、と言い張るのは難しいでしょう。けれども、これらの設定自体はあくまでシナリオを進めるためのものであって、エヴァンゲリオンという作品そのものの根幹には関与していないのではないか、と私は思うのです。もしくは舞台装置や小道具的であるとさえ言っていい。こういった書き方は、エヴァンゲリオンにおける設定の考察はその作品の本質を捉える役には立たないという取られ方をされかねないので、ここらで黙りますが。そう取られる事は本意ではありませんし、私も設定面における考察をする事は好きなので。

新世紀エヴァンゲリオン | 新世紀エヴァンゲリオン Wiki | Fandom

▲素晴らしい有志Wikiです。沿革や設定についてより深く知りたい方はどうぞ。 

 しかしながら、くれぐれも私の解釈と断ってはおきますが、私にとってのエヴァンゲリオンとは、主人公である碇シンジによる他者との邂逅や離別、そしてそれらを通しての成長を描いた作品、という形に帰結します。これらを描きつつ、エンターテイメントであるアニメ作品として昇華させるにあたってのファクターとして必要だったものが、エヴァンゲリオンという兵器やNERVの陰謀だったのではないか、と。だからこそ、あくまで私は設定を小道具と考えています。


 さて、エヴァンゲリオンをヒューマンドラマとして捉えるのならば、私達はその痛々しい程に丁寧な不安定さや弱さを描いた心理描写に目を向けねばならないでしょう。主人公碇シンジの打たれ弱さや、惣流・アスカ・ラングレーの承認欲求、葛城ミサトの欠落した父性探し、そして何より、碇ゲンドウの喪失との対峙。ここに挙げたものはほんの一例に過ぎません。つまり、登場人物各々が各々なりの弱さや問題を抱え込んでいる訳です。これこそが、私がエヴァンゲリオンを好む大きな理由と言えます。流石にこれ程に人間性が拗れた人達が一堂に会する事は少ないものの、誰しもが何かしらを抱え込んでいる、という状況自体はかなりリアルじゃないですか。これは私がエヴァンゲリオンに教えて貰った大切な事だと思っています。だからこそ、他者に対する配慮や優しさを欠く事は避けなくてはならない。エヴァンゲリオンは人との関わり方の教科書です、私にとってはね。

 

 ヒューマンドラマとしてのエヴァンゲリオンにおける、人と人の触れ合いを如実に表す要素として、「Absolute Terror Field(絶対不可侵領域)」ことA.T.フィールドのお話もしておきましょう。

 新世紀エヴァンゲリオン第弍拾四話「最後のシ者」において、渚カヲルからA.T.フィールドは心の壁だ、という説明が為されます。

そう、君たちリリンはそう呼んでるね

何人にも侵されざる聖なる領域

心の光

リリンも分かってるんだろ?

A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁だという事を

出典:渚カヲルの名言・名シーン・名セリフ集 : みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン

 これまではロボットアニメにおける演出の一環として用いられてきた謎のバリアが、ここに来て突然心理的な物としての要素を持ち始めるのです。それと同時に、この言葉を「戦闘描写における両者が傷つかない為のお約束的設定」としてだけではなく、「人が心に持っている触れられたくない領域を守る為の心理的障壁」といった意味で取る事が可能になります。この単語が劇中で持つ意味についてより深く掘り下げてお話をすれば、当然作中において人が人の形を保てている事や、人類補完計画など、作品の根幹設定にも踏み込まなければならなくなっていくでしょう。しかしながら、今回はあくまでヒューマンドラマ的要素のみに留めるつもりなのでそこらの話はまた今度。

 話を戻します。今更ネタバレを書いても然程ダメージにはならないだろうと踏んで書きますが、後者の意味としてのA.T.フィールドは『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、碇ゲンドウ碇シンジが対話するシーンではっきりと用いられました。息子である碇シンジという存在が恐ろしかった碇ゲンドウは、彼との対話の際、その恐怖をA.T.フィールドという形で展開するのです。この描写はあくまでアニメ的な物ではありますが、現実世界においてそれに近い事はしばしば私達も行っているでしょう。実生活で出会う得体の知れない他者に対して、自身の弱さや根幹的部分を曝け出したくない。そういった時に私達は例えば話し方であったり、表情や態度であったり、様々な形で相手を拒絶します。この行動こそが、劇中で言われる所のA.T.フィールドそのものな訳です。どうでしょう、案外日常的にやっていませんか?この様な対人関係における普遍的要素を設定に、それも根幹部分に関わる物として取り込んでいる点も、私がエヴァンゲリオンをヒューマンドラマとして捉えている所以です。

A.T.フィールドについて、作中でしばしば用いられるヤマアラシのジレンマと関連して書かれている記事です。お読み頂ければ造詣が深まるかと。


 随分と長々と語ってしまいました。当初の予定ではここらの後書きに一枚映画の半券でも貼って「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」なんて事を添えて締めるつもりだったのですが、3000字やそこらでこのシリーズについて書き切るのは些か自分の大事な作品に対して失礼な気がしてきたもので。ですから、うんざりする程にもっと書きます。

 今回「序」と銘打ったからには、今後もしばしば「破」や「Q」などのシリーズを更新する予定ではあります。それがいつになるかはさておき、全て書き切る事でようやく『エヴァンゲリオン』という作品群とお別れができそうなので。暇な時にでも読んであげてください。

 それでは皆様、良き日々を。

コロナで見えたものとか、変わったものとか

 さてもさてもの4回目です。素晴らしい!1週間の半分を継続更新しましたね。物事は1週間続けられればある程度習慣化されるだろう、というのが私の持論なのですが、皆様はいかがでしょう。1ヶ月?半年?もしかすると1年?期間が長ければ長い程、貴方は強い人だと思います。まだ習慣化していないからもっと続けよう、という意識を保ち続けるのは並大抵の事ではありませんから。だから、気張りすぎない様のらりくらりと頑張ってください。密やかに応援しています。

 


 前置きはここらに今日のテーマを。

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 最近流行っている事。

 

 書こうと思って初めて、我ながら少々浅ましいテーマではあるなと思い、苦笑を隠せません。PV数を稼ごうという魂胆がやや透けて見えている。ですが、壁打ちブログをやった所でなんら面白くないというこちらの気持ちを読者諸兄姉には汲んで頂き、一つご容赦を。時事ネタや風潮について少しお話しさせてください。


 2020年代に流行り物の書き事をするにあたって、新型コロナウイルスを避けて通るのは至難の業でしょう。もっとも、私は専門家ではないので、ここで対策はこうしろだとか、政府の対応はどうだとか、そういう事を論じられる程偉くはないのですが。申し訳程度に、信用の置ける厚労省のリンクを貼っておきます。

 


厚労省の新型コロナ関連情報。ネットの玉石混交の物よりは良いかなと。

 ではなく、新型コロナ前後で何が浮き彫りになったか、何が変わったか。そういう話をしましょう。

 突然ながら、私の脳内はお花畑です。いきなり何を言い出すのか、そう思われるのも山々でしょうが、そこはどうか堪えて。話を戻しましょう。私は全ての人が話し合いや団結によってある程度の争いを収められると信じてやみません。ですから、新型コロナウイルスの蔓延を見た時、僅かながら興奮してしまった事も事実なのです。映画なんかでよくあるじゃないですか、人類が一丸となって立ち向かう展開。インデペンデンス・デイコードギアスで麗しく語られる、「圧倒的に強大な敵」という存在に対して誰しもが結束し、人類の勝利としての平和を掴み取るシナリオ。そんな使い古された物語を、私はこの情勢に期待しました。

 けれども、現実はそう上手くいかない訳で。事実は小説よりも奇なり、とはよく言った物でしょうか。この疫病が私に教えてくれたのは、未曾有の災害に対して、人はあまりにも脆かったという事実でした。政府は嘘をついている。学者達は我々をモルモットと思っているに違いない。特定の人種は病原菌を持ち込むから出国するな。見渡せば、四方八方には不安に起因した煩雑な情報が溢れ回ります。そしてそもそも、責任はどこだ。誰が取るのだ。誰しもが負の感情を向ける矛先を探し回っている時だってありました。

 私は人間が弱い生き物だとは知っています。何しろ、私自身が強い人間ではないのですから。だからこそ、人間はこういう時だけでもそれなりに他人を信用、許容して生きてやっても良いのではないか、なんて事を時たま考える訳です。仲間がいるというのもそうそう悪い事ではないでしょう、絵空事の美麗辞句ではありますが。

 もう一つこの災禍で浮き彫りになった事がありました。これは人間の脆さと相通ずるところがあるのでしょうが、基本的に私達は自分にとって都合の良いものしか見たがらない、という事実です。

 私は世間一般が「陰謀論」と称する一部の言説に対してある程度は肯定的な立場です。それを心の拠り所とする人がいるのならば、いかに「正しい」とされる見地からその説が外れていようと、信じている人々を蔑ろにはしたくないので。彼らが先に述べた考え方を地で行っている事は事実でしょう。自分にとって「正しい」とされる真実しか頑なに見ようとしないのですから。

 けれども、それは彼らだけなのでしょうか。私達も彼らと同じく、自分にとって「正しい」とされる言説を信じている訳で。勿論、それはエビデンスや発信元に対しての信頼から成り立つ正しさではあるのですが、思考の流れとしてはある種変わらないのでしょう。

 だから、たまに思うのです。もし仮に、私達が「正しい」と思っている人々から、自分達にとって都合の悪い情報が流れてきた時、私達はどういった行動を取るのでしょうか。それでも「正しい」とされる情報に向き合えるのでしょうか。時々不安になります。

 不穏な話はここまで。


 新型コロナ関連の話をして明るい話題になる事はあまりないのですが、たまにはそういう時があってもいいでしょう。次のお話へ。


 しかしまあ、このウイルスは私達の生活を丸切り変えてしまったなあ、としみじみ思います。どこに行ってもマスク、マスク、マスク。たまにマスクをつけていない人もいますが。そういう人にとやかく言うつもりはありませんが、マスクを付けていれば波風立てずに済むんじゃないかな、と考えることもあります。もっとも、突然紐が切れたとか、すごい転び方をして使い物にならなくなってしまったとか、色々あったのかもしれないので、一概にマスクを付けない人と一括りにするのも間違いなのかもしれませんが。

 マスクを付けない人で思い出しましたが、最近環状線の駅でしばしば反ワクチン派の方々がマスクを付けずに抗議活動をしている様子を見る事があります。先程の陰謀論と被るところはあるのかもしれませんが、彼らも彼らなりの信念があるのかな、なんて事を横目に見ながら考えます。私達大多数の人々にとっての真実と彼らの主張は違える所にあるので、多数派になられる事はご勘弁被りたい所存です。けれど、信念を持って活動している人の姿は悪くないな、とも思ってしまうのはまだまだ若いでしょうか。

 ネタを変えましょう。最後に自粛のお話も少々。

 自粛、皆様はされていますか。自慢でもなんでもありませんが、私は結構敬虔にやっていました。学校様のおかげでワクチンを刺して貰ったりで気が大きくなってしまったのか、最近は緩みつつあるなあ、とは思うのですが。けれども、よくよく考えれば、コロナ最盛期の私の小心者っぷりは我ながら病的であったと思い返す次第です。本気でスマホを消毒してみたりだとか、ドアノブを毎回拭いたりとか、出先では常時手袋を付けてみたりとか。幸い、他人に対しての攻撃性が著しく低かったお陰で自粛警察みたいなものにならずには済んだのですが、未知の脅威は人を狂わせる事もあるなと懐かしんでいます。

 正しいかどうかは別として、こういう人間に付け込んで私腹を肥やす人は本当に頭がいいなと思う事もあったりなかったり。そういう人って、その状況下で人がどういう事を不安がるかという事を的確に理解して突いてくる訳じゃないですか。誰よりも冷静に状況を見据えて人の事を考えないと出来ない事なんじゃないか、と思います。それをもう少し社会に貢献する方法で使って貰えれば、案外いいカウンセラーなんかになったり出来るんじゃないでしょうか。夢を見過ぎかもしれません。

 随分と冗長になってしまったので、今日はこれまで。後書きを書いてお別れしましょう。


 やけにセンチメンタルな記事になった事をお詫びしたい所存です。書いているうちにどんどんバッドに入っていくのを感じました。閲覧数稼ぎ半分で書く記事でこちらがやられていく、というのはちょっとした笑い話でしょう。明日は楽しい記事を書きたいものです。

 まだまだこの非日常は続くのでしょうが、いつの日か、そんな時期もあったね、と普通の気持ちでお話できる日を心待ちにしています。

 

 それでは皆様、お体にはくれぐれも気をつけて、良き日々を。