p氏の異常な愛情 または……

映画とか趣味とか色々。

私と書店

 三日間ブログを書き続けたブログ初心者が三日坊主について書くのはありふれた事なのでしょうが、それでも三日で投げずに今日も書けている事を褒めておきたい所存です。やる気と根性が続く限り、自分の「好き」を言葉にする作業を諦めない様に戦っているつもりなので、生温かい目でお読み頂ければ。

 些細な連絡事項ですが、自分の書けそうなジャンルについて昨日少し考えてみたところ、案外ゲームとアニメは齧っていたなという事を思い出しました。ですから、今回からルーレットにその辺りの項を追加しています。

 さて、それでは本日のテーマを。

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 本。

 

 自慢ではありませんが、我ながら小さな頃からそれなりの冊数の本には慣れ親しんできたと自負しています。もっとも、その多くは小説なのですが。そのおかげか、好きな作家様や、ある程度作品について人とお話しできる作家様が割合沢山いるつもりです。しかしながら、数が多いというのも難儀なもので。その中から一人や一作品だけを選んで記事にしろというのは、取り上げるものを選ぶ作業に難航しました。

 ですので、初回は敢えて特定の作家様や作品を取り上げるという事はせず、漠然と本について、私の思う所をお話しさせてください。それでは、今暫くお付き合い頂きたく。

 


 本と言われた時、何を思い浮かべますか。勿論この一方的に情報を発信する形式であれば、貴方の意見を聞くことは出来ませんし、そもそも、この漠然としたイメージに対してはっきりと意見を述べられる方はそう多くはないでしょう。事実、私もそうです。ただ、やや堅苦しい前置きを突破して、この本文にまで辿り着いた貴方であれば、読み物はきっとそれなりにお好きなのだろうな、などと私は勘繰っています。そんな貴方へ受けるかどうかは分かりませんが、少しばかりの読み物を用意しました。私の本への思うところと、出会い方の話です。

 


 書店が好きだ。梅田の紀伊國屋は特に。所狭しと棚に並べられた本は自分から僕に声を掛けるなんて事はせず、ただじっとそこから僕を見つめている。その厳かさと、薫物の様な紙の香りに、客人の僕達は礼儀としての沈黙で応える。この暗黙の了解が書店を静謐な空間に保っているのだと思うし、その独特の空気感があるからこそ、僕は書店が好きだ。

 棚の間を縫ってふと手を伸ばせば、誰かが纏めた一つの体系が実体としてすぐ手に取れる。けれども、それは体系らしく、短い時間でわかった顔をされる事を拒絶する。だから僕は、本を手に取る前にいつだって一礼をしなくちゃならない。これから少しだけ、あなたについて理解させてください、と。


 僕は本を尊敬している。本と僕なら、絶対的に本の方が上にあって然るべきだ。読んだ事のない本は僕の知らない事をいつでも知っているから。それは例えば言わずもがな知識であったり、使い古された引用だったり、知らなかった感情であったりと様々だ。もっとも、メタ的に考えるのなら、僕は本そのものではなくてそれを書いた著者を尊敬するべきなのかもしれない。けれど、本を読む時常に作者を意識しながら読む人はそうそういないだろう。だから、僕にとって読書は、あくまで目の前の本と僕の間で交わされる授業時間みたいなものだ。

 それと同時に本は寂しい。彼らはその授業時間の後、僕らが授業で得た事や考えた物について、肯定も否定もしない。ただ同じ事を繰り返し語ってくれるだけだ。僕らは本との時間において、その内容を何度も何度も反芻することしか出来ない。

 けれど、本は僕らを繋げてもくれる。偶然同じ本を読んだ、この事実が縁になることもしばしばだ。

「あなたもこの本を読んでいたんですか、どうでしたか?」

 この言葉は、僕にとって十分過ぎる程の身内意識の始まりだ。そういう時、僕は学友と久しぶりに会った時の様な懐かしさや同胞意識を覚える。

何しろ、目の前にいる人は、いわば同じ先生に教わった生徒なのだから。その心境や生い立ち、読む速さに多少の違いこそあれど、同じ時間を共にした事がある友なのだ。そして同じ本を選んで読んだ時、その本を選んだという事実は往々にして似た様な価値観を示してくれる事の証左でもあるだろう。本を読んだ後にそういった人達に出会える事がはち切れる程に嬉しいのだ、僕にとっては。

 


 そんな思いを抱えながら、僕は当てもなく棚の間を転々とする。最初は話題の本。目についた小説を手に取って、心の中で手を合わせながら少しだけ開いてみる。POPはどういう触れ込みなのか、内容は好みか、文体はどうか。後書きはどんなものか。けれど、このいずれも持ち帰るにあたっての決定的な理由にはならない事を僕は重々承知している。だって、買おうと思った本は、手に取ろうとしたその事実が半ば決めているのだから。流し読みなんて作業は、検品作業以外の何物でもない。こうして一冊追加される。

 

 続けて新書、専門書。あの分野は前から興味があったし覗いてみるのもいいんじゃないかな、こっちに初学向けのいい本はないかな。そうやって僕はふらふらとする。心なしか、このコーナーにいる人は難しい顔をしている人が多いと思う。本とその道のプロフェッショナルを邪魔しない様、僕はより一層縮こまって集合知の具現化をくぐり抜けていく。最終的に行き着いた棚で、僕もプロフェッショナルとまでは言わないまでも、アマチュアの端くれみたいな顔で棚とにらめっこをする。ここで本を選ぶ時の僕は慎重だ。その一冊当たりの質的な重さもさることながら、価格もそれ相応なのだから。買うだけ買って読まない、なんて真似は万物に対する失礼に値する。だから、手に取って開く本もじっくり吟味した物だけだ。タイトルと厚さに加えて出版社、そういう情報を見た後、ようやく2冊ほど手に取る。少しだけ眺めて、今回は置くことにした。ごめんなさい、また来ます。そう心の中で呟いて、僕は棚を後にする。

 

 お次はコミック。この辺りからは堅苦しい挨拶を終えて、さながら祝宴場に向かう気分だ。追っている漫画の新刊や未発掘の新作を探しながら極彩色の通りを練り歩く。鮮やかな表紙絵の数々はまるでドレスの様で目にも楽しい。もっとも、僕はまだ巻数の少ない漫画を通販で一気に買うか、追いかけている新刊しか買わないので、ここで買う事は稀なのだが。だから、表紙を眺める挨拶だけをしてすっと離れる。この次が、最後にして僕にとってのメインだ。

 

 お待ちかね、文庫本エリア。ここは本当に天国だと思う。古今東西、ありとあらゆる名作が親しみやすい価格で向こうから出迎えてくれる。好きな作家、話題になっていた作家、前から気になっていた作品、この前誰かに教えてもらった作品……歩いているだけで考える事が溢れてきて堪らない。それを探して手に取るプロセスだけでもう既に幸せで、懐が温かければこのコーナーに来た時に僕の頭は空っぽになっている。本当に、楽しいのだ。ワクワクするのだ。考えてもみて欲しい。たかだか少しの昼食や出費を我慢するだけで、次から次へと気になる物を手に入れられるかもしれない事の快感といったら!よく見繕った3冊ほどに着いてきてもらって、レジカウンターへとまるで小躍りでもする様に向かう。

 

 並んで支払いを済ませていく。本のタイトルを見せびらかす様な読み方が好みではない僕にとって、ブックカバーは必需品だから、一冊ずつに巻いてもらう。全ての本に巻き終わった後、近頃の店員さんは最後に手提げ型の紙袋の有無を聞いてくれる事が多い。これが、僕の本屋での最後の楽しみだ。僕は敢えて、紙袋を断る様にしている。勿論、たかだか数円といえど経済的な理由も半分だ。けれどそれ以上に、そう言った時の店員さんは手提げでなく、小包の様な紙袋に包んでくれるのがたまらなく嬉しい。封をされて受け取った紙袋を小脇に抱えていると、迎えた本をより身近に感じられる気がして、なんだか愛おしいのだ。

 改札を通って満たされた気持ちになりながら電車に乗る。座れれば、静かに封を開けて文庫本を手に取り、読む。ページを捲っているうちに勝手に電車は駅へ着いてしまうから、読める時間を大切に。そうやって読みつつもいい買い物をしたな、なんて事を考えながら一日を終えていくのが僕の本屋の楽しみ方だ。

 

 長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。お恥ずかしながら、書き物屋になりたいなみたいな事を考えている時期があったので、時たまこういう事をしたくなります。もっとも、こうやってブログを書いている時点でいまいち諦めきれていないのでしょうが。恐らく既にお分かりの事と思いますが、以上の通り私は本屋が大好きです。きっと何歳になっても、その心自体は変わらないのかな、と。読み物があまり好きでない方がここまで読んでくれるのか定かではありませんが、もし良ければ、たまには本屋に行ってみてあげてください。いい本が貴方をきっと待ってくれているはずです。


 それでは皆様、良き日々を。

amazarashi紹介:1

 100ワニに味を占めて、なるべく毎日ブログを更新してみるのもそうそう悪くはないだろう、と書き出している次第です。頻繁に活動する事でもう少し多くの人にワニの感想が届いて欲しいという思いもあります。インターネットの「取り敢えず叩いとけ」みたいな風潮、あまり心地良くないので。


 けれども、継続的に更新するにあたって、そんなにネタは毎日ぽろぽろと転がっているのか?早々に私は壁にぶつかります。世界は面白い事で満ち満ちている、という言葉にはそこそこ共感するものの、それは全世界規模での話であって。私達にとっての世界というのは、自分の目に届く範囲のちっぽけな生活圏でしかない訳です。ならば、半ば強制的にある程度のテーマを固定してやって、それに対してうんうん唸りながら頭を捻って貰うのが良いでしょう。

 しかしてルーレットが生成されました。第二回のテーマはこちらです。

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 音楽。他のテーマについては当たった回で各々説明が為されると思いますので、ここでの説明は割愛。では、少しばかりお付き合いくださいませ。

 


 初めて私が音楽について長々と取り上げるならば、それはきっとamazarashiの話から始めるべきなのでしょう。



 amazarashi。青森県を拠点に活動されている、秋田ひろむ氏(Gt.Vo)と豊川真奈美氏(Key.Cho)のお二人をメインユニットに据え、サポートメンバーを加えた5人で編成されるロックバンドです。昨今では全国ツアーは勿論のこと、人気アニメとの主題歌タイアップや、THE FIRST TAKEへの出演なども果たされ、知名度如実に上げていると言って差し支えないでしょう。また、最近であれば2018年11月6日に武道館で行われたライブ公演「新言語秩序」が「Spikes Asia Festival of Creativity」において、デジタルクラフト部門で金賞、デジタル部門で銀賞、モバイル部門・デザイン部門で銅賞と文化的にも高い評価を得ています。

 私がこのバンドを好きになったのは古参の方に比べれば比較的最近ではあるものの、フォロー当時は5,6万人だったTwitterのフォロワーも、今や13万人に手が届くところといたく大手のバンドとなりました。

 そんな彼らの特徴を語るに際して外せない事柄の一つは、やはりそのライブにおける独特の演出でしょうか。彼らは昨今流行りの顔を隠して音楽活動を行うバンド、いわゆる覆面バンドに類されるのですが、その顔を隠す方法とはマスクや化粧、光の加減ではなく、絵と言葉です。やや比喩じみた言い回しを用いた事を先に詫びる次第ではありますが、あながちこれが間違いではないのです。というのも、彼らのライブ会場に入った時、まず目に付く物は巨大な紗幕なのですから。ライブが始まるとそこへ曲に合わせた映像が投影され、それが覆面の役割を果たしている訳です。

 この映像自体の丁寧さも取り上げておくべきでしょう。彼らのライブにおいて、ライブ中に同じ映像が使い回される事はなく、全ての曲に対し、それにフィットした映像、演出が用意されています。現場で音を楽しむ事以外に、その映像の内容を楽しむというのも、amazarashiに関する楽しみ方の一つと言えるだろう、と私は自信を持ってここに記します。

▲公式から配信されている実際のライブ映像。映像に関する拘りを感じて頂ければ。

 度々私は他のバンドのライブにも顔を出す事がありますが、座席とステージの距離が離れる程視覚的には退屈なものになってしまう、という欠点は多くのライブが抱える点でしょう。

※ベーシストがライブ中に跳ね回ったり暴れ回ったりするので、かなりの距離からでも目に楽しいバンドはありますが

 馬鹿野郎、遠くに見える点の様なアーティストを一心不乱に見つめる事も味があるだろうと言われればそこを否定はしません。しかしながら、そういった議論が起こる前に「これを見れば飽きないよ」という誰に対してもストレートに納得できる選択肢を先に提示してくれる、という事がなんだかありがたいな、などと思う訳です、ファンとしては。なお、ここまで映像について語ってきましたが、例外的に映像が用意されていない楽曲は存在します。その辺の話はまた後日。


 話を続けましょう。他に特徴を挙げるとすれば、それはきっと多くのファンを魅了してやまない、秋田ひろむ氏の描く詩世界でしょう。最近は最初から前向きな楽曲が増えてきたものの、これまで彼が歌い上げてきたものは、現実における絶望と、そこにわずかばかりに残された希望の詩です。彼らは「アンチニヒリズム」を標榜して活動していますが、私はこの言葉の意味を「消極的ニヒリズムに屈するのは生きていく上で仕方のない事です。けれど、それに負けて終わらずになんとか生きていきましょう」という意味合いで受け取ることにしています。

▲消極的ニヒリズムの側面が如実に現れている楽曲。夜中に聴くと落ち着きます。

▲「どうでもいい」という消極的ニヒリズムに対しそれを一旦受け入れた上で、「それでも」と先に進んでいく楽曲。amazarashiらしい曲だなと思っています。 

 そして、彼の詩世界を語る際、切っても切れないのはニーチェ宮沢賢治の存在でしょう。  

 ニーチェについて、私の浅学さ故に、ここで大っぴらに語ることは避けます。(後々勉強して何かしら纏まれば書くかもしれません。)ですが、「夜の歌」や「デスゲーム」における「ルサンチマン」などに始まる、言葉による表面的なエッセンスから、歌詞の根底に実存主義的な思想が見え隠れする辺りも踏まえて、彼がこの辺りの思想について造詣が深い事は想像に難くないでしょう。哲学に興味がある、という方への玄関としてもそうそう悪くはないのでは?などと思っています。というより、実際私もその口です。

 続いて宮沢賢治宮沢賢治といえば、私としては昔教科書で読んだ「やまなし」における謎の存在、クラムボンの正体は結局何であったか、というイメージが強いのですが読者諸兄姉はいかがでしょうか。一説では水生昆虫である、との話もあるそうですが、今尚学者の間では議論が交わされているのだとか。

 閑話休題。amazarashiと宮沢賢治の関連についてです。まずは一旦こちらの楽曲をお聴きください。


 語るに及ばないほどの宮沢賢治をご実感頂けたかと。「ジョバンニ」「カムパネルラ」「星めぐりの旅」「りんご」etc...

 宮沢賢治は齧った程度の私ですら簡単に列挙できる程にこれだけのエッセンスが散りばめられているのですから、研究者や愛読者であれば尚の事見つけられるのでしょう。ご明察の通り、こちらの楽曲は「銀河鉄道の夜」から着想を受けている訳です。他にも「よだかの星」とタイトルや内容もそのままのポエトリーリーディング(amazarashiの楽曲においてはしばしば詩の朗読が用いられます)を書かれていたり、「ワンルーム叙事詩」において「雨ニモマケズ」を改変した引用を行ったりと、彼の詩においてしばしば宮沢賢治はその姿を見せます。

 ニーチェと同じく、宮沢賢治についてもその思想やテーマについては依然勉強中の身の上である為、ここでその思想的な繋がりなどについて大体的な考察を展開するつもりはありません。あくまで楽曲や彼らの紹介におけるさわり程度に今回は収めさせて頂ければ。いつか書きます、その日をお待ちくださいませ。

 さて、長々とお付き合い頂きましたが、この記事で彼らの魅力について僅かながらでもお伝え出来たならば幸いです。私としてはあくまで今回は彼らの紹介のみに留めたつもりですので、今後音楽関連のカテゴリーについて書く際、このバンドに関しては結構な回数を連ねる心積りです。私にとって最も大事なバンドと言っても過言ではありませんし、アルバムについての個人的な解釈や、このバンドの沿革と作曲の方向性の関連に対する考察、ライブレポートなど、まだまだお話ししたい事はたくさんありますので。勿論、他にもいくつか私の好きなバンドを紹介する予定もありますから、そちらもどうかお読み頂ければ。

 締めの挨拶です。それでは皆様、良き日々を。

100ワニの感想とか

100日間生きたワニを見ました。

 

 正直なところ、お金を払って観に行くものではないという言説、認識に関しては全くもってその通りだと思う次第です。以下、日記染みた内容ではありますが、入場、並びに上映中に感じた事等々をつらつらと述べて参ります。

 

 バイトまで6時間、喫茶店でうだうだとするには長すぎる一方、何もしないにしては有り余った時間を持て余した私は暇潰し半分に観られる映画はないかとTOHOのサイトを訪問。およそ1時間かかる劇場に到着して即時観られる映画はないかと探していたところ、100日間生きたワニに遭遇しました。これ程話題になっている映画であれば、一つ話のネタにでも悪くはないだろうと即刻予約を決意した訳です。

 

 しかしながら、予約の段階から不穏な空気は漂います。平日の昼間に予約をした私にも幾ばくかの責任はあったのかもしれませんが、上映開始直後のインターネットによるある意味では「正しい」ネガティヴキャンペーンも手伝ってか、予約段階から客層、という言葉を使うのもおこがましい程の過疎っぷり。

 

 

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 300人近くを収容できる劇場で12人しか入っていないのは、劇場に足繁く赴くようになったのは最近である私と言えど初めてです。強いて言うのであれば、画像の通りちらほらと2つ並んだ座席があったのは救いだったのかもしれません。全て一人であれば、私のような一つブログや話のネタにでもしてやろうといった、ある種浅ましい魂胆を持った客しかいないような気がしましたので。

 ちなみに、実際劇場で確認してみたところ2人座席の正体は1組のカップルと面白がって連れ合いと見に来たであろう友人連れのオタクでした。友人と来るのはともかく、カップルに関してはよりにもよってなぜこの映画を観に行こうと思ったのか問い詰めたい次第でしたが、それはまた別のお話です。

 

 

 65分程度と短い時間だったので、Sサイズのコーラだけを購入して着席。広告が続きます。余談ながら竜とそばかすの姫、サマーウォーズのリペイントじゃないの?みたいな気分に毎度なるのですが、これは私だけでしょうか。最近の金曜ロードショー関連で細田守監督が話題になっていましたし、雰囲気自体は好みなのでいつか観ると思います。

 

 

 

 広告ゾーンを潜り抜けいよいよ開始。100日目を迎えた所から本編は始まります。桜が散る公園の中、主要人物の四人(?)がワニを待ってお花見と洒落込む。遅いな、とぼやくモグラを横目に痺れを切らしたネズミはいつまでも来ないワニを迎えに行き、ワニはひよこを庇って死亡する、この流れがオープニング的に映像化されていきます。

 

 

 さて、これは他の感想においても散見された点ではありますが、この内容を映像化するだけのはずが間の非常に長い事。アニメ映画であれば無言のシーンでも絵が動き続けたりする事が多いのでしょうが、そんな事は特にありません。ひらひらと散っていく桜の花びらのエフェクトだけが、これは決して静止画などではなく、現在進行している映画なのであると強く主張しています。恐らくこの「間」は手抜きなどではなく監督によって意図的に仕込まれた演出であると考えられる以上(後のシーンにもしばしば間が利用されているので)、それを否定するつもりは毛頭ありませんが、退屈な時間であったことに関して、私は否定をしません。

 上映中の私はなるほど、これが紙芝居と言われる所以か、と納得しながらコーラを啜っていました。無音のシアターに、オタクがストローでコーラを啜る音が響くのが気恥ずかしい。

 

 

 クライマックスを冒頭に持ってきた以上、そこからは後日譚かと思いきや、映画は流れるように過去の回想へと突入。ワニが過ごした何もなく、けれどとてもやさしい日々がスクリーンに映し出されていきます。目立って面白い事やスリル満点の大事件、そんなものはありません。緩慢な誰にでもある日常です。(尚、筆者は数日前バイト先の女の子に振られたのでセンパイ関連のシーンだけかなり動揺していました)危機感の無さに裏付けられた絶対的な穏やかさが、日常で荒んだ私の心をまるで風一つない湖の水面の様に鎮めていきました。

 この日常シーンに関して、私は非常にこの映画を気に入っています。ワニが友人達と交わす、映画らしからぬ、そこに深い意味や含蓄は込められていない、他愛ない友人との会話や、行動の一つ一つにおける愛おしさと言いましょうか。私を含むその辺の暇な学生は四六時中こんな事をしているなあ、などとある種の親近感を覚えた訳です。ラーメン屋でのあと1000回は啜る、などのくだりは誰しも一度はやった事があるでしょう。

 

▲筆者お気に入りのラーメン絡み回

 勿論、この辺りの内容自体は作者であるきくちゆうき氏の手腕によるところではあるのでしょうが、それを映像化する事によって生まれる現実感の高さについては、この映画において評価されるべき点であると私は訴えたいです。また、これが総上映時間の半分程度を占めているのはいかがなものか、と唱える言説に対しては元からそういう作品だったでしょ、と答えていきたい所存であります。

 

 

 そんな過去回想も100日目に合流していく形で終わりを告げ、展開は冒頭、振り出しに戻りました。ワニ亡き後、ワニと交友のあった主要人物四人に関するそれぞれの生活が描かれ、各々が各々なりに「ワニの喪失」という現実に直面する様が描かれます。ここでカンフル剤的に投入されるのが、これまたインターネットで賛否両論を巻き起こしている新キャラ、カエルです。

カエル。

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出典:https://100wani-movie.com 

 

 ワニの喪失からバラバラになった四人を再び結束させる事が、全体を通して分かる彼のこの映画における役割だった訳ですが、はっきり言って鬱陶しいという意見について、私は非常に納得しています。というのも、「距離感のバグったコミュニケーションを押し付けてくるモンスター」というのが彼のキャラクター性に対する総括と言っても過言では無かったので。口を開けば絶妙に嫌な感じの声音でうざったらしく絡んでくる、という作中における動き自体は嫌悪感を抱かない方が不思議というものでしょう。嫌なキャラクター作りとしては素晴らしいと思います。もっとも、そんな彼にもある重大な秘密があったのですが、せめてそれくらいは伏せたままにさせてください。この点で少しだけ私は驚きましたことだけは添えておきます。

 

 このなんとも救えない様なキャラクターに仕上がっている、或いは仕上げられてしまったカエルですが、その鬱陶しさ自体が結果的にプラスに働いたのではないか、という見方も私はしています。後半、事件を経てなんとなく気まずくなった主要人物ら四人は自らが集まる事でそこにぽっかりと空いた穴がある、つまり、ワニはもういない、という事実を際立たせてしまうからか、自発的に集まる事を避けているであろう姿が描かれます。そこにカエルという異物がやってくる事で、バイトを探したり、人寂しさだったりと、なかば強引な形ではあるものの、彼らの間に繋がり、よりドラマチックな言い方を好むのであれば、縁が再び生じ始める訳です。大事な友人の喪失、という絶望的なまでに立ちはだかる壁を前にした彼らを再び繋ぎ止める為には、それを突き崩せる程度にアッパーなキャラを用意する必要があった、という解釈や説明があれば私は信じるでしょう。

 

 しかしながら、このカエルというキャラクターについて、先に述べた好意的な解釈を置き去りにしてしまう様な感想も私は持ちました。

「おいおい、仲の良かった4人組はちょっとヤな奴だけど結果的にはいい奴なカエルの手で関係が修復。これからはカエルも交えてハッピーな日常は続いていくでしょうって終わりにしとけば、この文章自体も収まりが良いだろボーイ?」と心の中に飼っているネズミが暴れるのは山々なのですが、私自身はその「カエルを交える」という行為にどことなく歪さを感じたのです。

 やや穿った解釈になる恐れはあるのですが、カエルが初めてリサイクルショップに来た時、イヌがまるで知人が来たかの様な反応をしているかの様に受け取れるシーンがありました。事実、彼自身のシルエット、上部の配色などは、一致とまでも言わないものの、どことなくワニを感じさせるものとは言えるでしょう。もっとも、これ自体は些細な事です。しかしながら、最終シーン、ネズミが友人達に加えてカエルも交えて遊びに誘い、皆で歩いている後ろ姿を見る時、カエルのシルエットはさもワニを意識させる様な描き方だった事に対し、いたく私は引っ掛かりました。勿論彼自身はワニと背丈が違いますし、先ほども述べた通り色も違います。それでも、その後ろから見たシルエットに関してはどこまでもワニと酷似している、という描き方が為されている様に感じられたのです。

 ここからの解釈はいよいよ発想の飛躍になるのかもしれませんが、これらの事実を踏まえた上で、彼ら、その中でも殊更ネズミに関しては、カエルを対等なカエルという存在ではなく、ワニの似姿として受容したのではないかという発想に至った訳です。勿論、生者に死人の似姿を見出す事は悪い事でありませんし、喪失を経験した人がそういった行為をしてしまう事も不思議な事ではないでしょう。ですが、その死人に魂を引かれた意識の上で構築されて行った関係性自体は、いつか歪みや事故を引き起こすのではないかなあ、などとエンドロールを眺めながら私はしみじみと感じました。この作品について、さらに続編が作られるなどという事は現在の状況から考えても有り得ない事態ではありましょうが、彼らのその後について、勝手ながら一抹の不安を感じた次第です。

 

 

 ここまで長々と述べて参りましたが、この映画について総評を述べるならば、「決して評価される程ではないが、ここまで酷評されるいわれもない映画」という形で私はまとめたく思います。見るに耐えない映画は世の中にもっと溢れていますし。

 

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▲クソ映画の話でかなりの回数擦られていそうな映画。この前見ました。

 

 

 実際問題、これだけの字数の感想を書けていること自体、この映画がそれなりにまともな作品的価値を持っている証左だと言っても良いのではないかと。もっとも、同じ金額を払ってアニメ映画を見るのであれば、現状ならばハサウェイを見たり、エヴァのラストランを見たりする方がオタク的には幸福だとは思いますが、それは個々人の裁量です。それでは皆様、良き日々を。