p氏の異常な愛情 または……

映画とか趣味とか色々。

『マトリックス』の話とか

 季節の話を少ししましょう。弊ブログを開設した頃にはあまり聴こえなかった蝉の音ですが、最近よく聴こえる様になってきました。夏を感じますね。1週間程度でこうも変わるとは。

 どうでしょう、皆様は夏がお好きですか?私は苦手です。苦手な理由については文頭を借りて訥々とお話しすると思いますので、今回はへえ、こいつ夏が嫌いなんだ、程度に納めて頂ければ。

 さて、ようやっと文頭に数字ネタを持ってくる呪縛から解放されました。5回目でぼそりとこぼしていましたが、割合数回やれば飽きるものですね、これが。

 


 うだうだと前置きを書いても仕方がないので、本日のテーマを。

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 映画。

 


 「呪縛からの解放」というワードを用いたので、この辺りをテーマに一本紹介しましょう。

 呪縛と言えばエヴァで、そこからの解放といえばさしずめシンエヴァじゃあないのかね、とオタク文脈思考回路で一挙に繋げる事は可能です。けれども、エヴァ一辺倒のオタクと思われるのも癪なのでここは少しズラさせて頂いて。

マトリックス


 SF映画、並びに映像技術のエポックメイカーとしては金字塔的な作品ですね。特に有名な例の銃弾を回避する演出、もといバレットタイムは『AKIRA』の横付けバイクなんかと肩を並べる程に映像作品でオマージュされているイメージがあります。

 いつも通り作品の紹介をしておきましょう。今回は第1作目についてのみ言及するつもりなので、そちらだけ。

 『マトリックス』は1999年に公開されたSFアクション映画です。監督はラリー=ウォシャウスキー氏、並びにアンディ=ウォシャウスキー氏。

監督についての余談も少々。2008年に兄であるラリー氏は性別適合手術を行い、ラナ=ウォシャウスキー氏に改名。弟であるアンディ氏も2016年に同手術を行い、リリー=ウォシャウスキー氏と名乗る様になりました。この為、当時は兄弟と呼ばれていたウォシャウスキー両氏ですが、現在は姉妹と呼ぶファンが多いですね。

 

 主演はご存知キアヌ=リーヴス氏。現在でこそ『ジョン・ウィック』での配役などによって「渋くてカッコいい壮年の仕事人」的なイメージが強い同氏ですが、映画撮影当時は35歳。彼の扮するネオことトーマス・アンダーソンにも若さが垣間見えます。


 本編の話に移りましょう。昼は会社員、夜はウィザード級ハッカーという二つの顔を持つ男、ネオ。彼はしばしば今自分がずっと夢を見ているのではないか、という謎めいた感覚に悩まされます。しかしながら、それもそのはず。なにしろ彼が生きていると思っていた世界とは、作中において「マトリックス」と呼ばれる、人間をバッテリーとして稼働するコンピュータによって構築された"仮想の現実"だったのですから。

 とある一通のメールからその"真実"を知る機会を得たネオ。彼はメールを送った張本人であり、彼の事を救世主と呼ぶ男、モーフィアスやその仲間達と共に、マトリックスに囚われた人類を解放する戦いへと身を投じていきます……といったところが粗筋でしょうか。

 私はSFというジャンルを比較的好みますが、初期設定の絶望感に関してこの作品は指折りでしょう。機械が人間を支配し、それに対して人間が抵抗する、というのは『ターミネーター』然り、度々見られるシチュエーションではあります。しかしながら、機械が支配するだけでは飽き足らず、人間そのものを資源として利用している物はなかなか見ないなあ、などと思ったり。本編30〜40分にかけて"現実"でのマトリックスの様子が描写されていますが、かなり良い感じに生理的嫌悪感を煽ってきます。想像してみてください、周りを節足動物じみたマシーンがカサカサ動き回る中、自分自身は培養液の中で身体中にホースを繋がれてコンピュータの養分にされている姿を。

 設定について少し別の話も。バッテリーとしての人間に仮想の夢を見せる、という状態について「水槽の脳」を思い浮かべられた方はきっと多い事でしょう。恐らく誰しも14歳くらいで一度この辺りの発想に至っているものと思い込んでいるので特に内容について詳細な説明はしません。要は自分の見ているものは全て脳に送り込まれた信号ではないのか、と疑い続けるだけの話なのですが。しかし、この「水槽の脳」という状態だからこそ出来る行動のあれこれについての発想は、見る人をとても童心に帰らせてくれる事でしょう。例えば、作中では「今いる現実は見せられている架空のものであるという無意識下での認識」(これを作中では「心を解き放つ」と呼んでいます。)を体得する事で、物理法則や身体の限界などを無視した行動も可能になる、という考え方が出てきます。どうでしょう、この考え方。俗に言う中二病だった頃に一度くらい考えてみた事はあるんじゃないでしょうか?そういった発想が好きな方ならば、まず間違いなく見ておくべきでしょう。満足度は保証します。

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出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/水槽の脳

 

 話を変えましょう。この作品においては哲学や宗教に関連する要素がそれなりの頻度で現れます。哲学に関しては勿論先述の「水槽の脳」然り、「自身の認識を疑う」という懐疑主義的な要素が、設定や、人間側の登場人物がマトリックスに対抗する為の根幹として置かれている事が窺えます。そして、宗教的要素。簡単に具体例をピックアップしておきましょう。シナリオに関わらない浅いところから始めるならば、まずはネオを救世主と呼ぶモーフィアスについて。モーフィアスの綴りは「Morpheus」なのですが、これはギリシア神話の夢の神、モルペウスと同じ綴りですね。マトリックスにおける架空世界の正体がコンピュータに見せられている夢であることを踏まえれば、その縁を踏まえた上でのネタとして採用される事も納得が行きます。

 続けて、こちらはやや映画の展開についても関わるものですが、キリスト教。そもそも主人公ネオが救世主と呼ばれる辺りから既にその要素はちらほらと見えてはいます。他にも、モーフィアスの所有するホバークラフトネブカドネザルを弄ったと思しき「ネブカデネザル号」であったり、ヒロインの名前がトリニティ(三位一体)であったりと、割合わかりやすく要素が散りばめられていて。少しキリスト教について知っているだけで作品に対する解像度が上がる気がして面白いです。余談ですが、史実においてネブカドネザル2世はバビロン捕囚でユダヤ人を捕らえる側だった訳ですが、これをコンピュータから解放する側の船の名前とした理由については少し疑問を抱いています。折角ならキュロス号みたいな名前でも良かったのでは、なんて事をたまに考えます。

▲下手な歴史サイトより個人的に信用している世界史の窓からバビロン捕囚を。高校生の頃よくお世話になりました。

 キリスト教的要素について若干のネタバレを交えつつもう少し深く。作中で「救世主」と呼ばれるネオですが、彼は「自身が救世主である」と自覚した辺りからその名の通りの行いを可能にする能力を手に入れます。早い話が聖書の救世主と同じく、マトリックス上で「奇跡」を用い始めるのです。具体的には時を止め、空を飛び、そして聖書の救世主と同じく、あるものを一度克服します。この文脈で書けば何が起こるか概ね予想は付けられそうですが、一度ご覧になってからなるほどね、という顔をして頂きたく思います。

 さて長々と語って参りましたが、この作品、正直ラストの30分程度を見ればそれなりに観た気になってもいいんじゃないかな、なんて私は思っています。勿論、些か暴力的な物言いであると自覚はありますが。私としては哲学なんかも絡めつつ、ネオが救世主として目覚めるまでの物語である序盤は捨て難いです。しかし、バレットタイム然り、画的に映えるシーンはほぼ全て後半30分に集約されているんですね。(もっとも、序盤の鏡に体が飲み込まれるシーンは今見ても色褪せない映像なのですが)言い換えるならば、前半1時間半は後半の画的に映えるシーンに持っていく為の丁寧な積み重ねと言ってもいい。

▲鏡のシーンを含んだ予告編。おおよそ30秒時点くらいです。

 事実、積み上げてきた1時間半を踏まえた上での後半30分のカタルシスは目を見張るものがあります。自分が本当に救世主か、と悩むネオが、とうとう覚醒して縦横無尽に暴れ回るシーンの爽快感たるや。キアヌ・リーヴス氏には銃と暴力が圧倒的に似合う事は『ジョン・ウィック』シリーズで証明済みではあるものの、『ジョン・ウィック』より先にそれをやった『マトリックス』は、そういう意味でも先取りをしていたと言えるのかもしれません。

▲犬を殺された殺し屋が大暴れ。ストーリー的には薄く感じるものの、映像が分厚すぎる。

 

 記事を公開しておいてなんですが、近く『マトリックス』には4作目が出るそうで。これを機に一気に見直してみるのも良いかな、とか。

 それでは皆様、良き日々を。