p氏の異常な愛情 または……

映画とか趣味とか色々。

さようなら、全てのエヴァンゲリオンの為に:序

 5回目。そろそろ数字についてお話しするのも飽きてきたのですが、前回お話しした通り1週間までは習慣付けの時期を抜けていないので、7回目までは前書きに引っ付ける心算です。とっとと本文に入りたいのも山々なのですが、そこはご愛嬌。文頭にちょっとした短文を添えるのが手癖なので。時候の挨拶よろしく、置きたくなるのです。

 数字といえば、PV100を越えられて少し嬉しいですね。

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 継続更新、頑張っていきましょう。


 ここらで本日のテーマを。

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 アニメ。


 アニメという言葉を挙げれば、自ずとオタクという言葉が付いてくる、というのは私の偏見でしょうか。しかし、オタク、という名称は随分とカジュアルな言葉になったなと思う今日この頃です。前時代の残り香か、やや卑下的なニュアンスを相変わらず含んでいる事は否定できませんが、それでも「自分はオタクである」と標榜する人が増えているのは事実でしょう。それが「好き」という言葉をストレートに打ち出す事における、ある種の気恥ずかしさを隠す為の仮面なのか、所謂私たちZ世代が風潮として持っている自己肯定力の低さの表れなのかはさて置き。半ば免罪符的に用いられる「オタク」という言葉ありきだとしても、好きな物を発信する人が増えているのはいい事だなと思います。

 さて、私も曲がりなりにとはいえオタクなので気が向けばアニメを見る事がしばしばあります。そんな中でも、根幹を支えていると言って差し支えない作品を一作紹介させてください。タイトルでもうお分かりでしょうし、半ば食傷気味かもしれませんが、いいじゃないですか。好きなんですもの。


 新世紀エヴァンゲリオン。並べて、ヱヴァンゲリヲン新劇場版


 今更説明するのも野暮かもしれませんが、紹介の体で書く以上は作品について少し。

 エヴァンゲリオン、と通称される一連の作品群には大きく分けて3つの形態があります。まず、私達がエヴァ、と言われたときにパッと想像しがちな新劇場版。

 こちらは2007年に封切られた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』、2009年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と続いていき、そして2021年。満を持して公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の4部作で構成されています。総監督は我らが庵野秀明御大、制作は株式会社カラー。実に14年、後述のアニメ版を含むのならば、26年もの歴史を経て全ての混沌とした、壮大なサーガに決着を付けました。

▲公式サイト群です。映像本編はAmazon Prime Videoで見れますので良ければ。

 続いて、テレビアニメ版。こちらは1995年から1996年にかけて地上波で放送されていた、一般に旧劇場版と称される『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』へと繋がっていく物語です。監督は言わずもがな、庵野秀明氏。制作は株式会社カラーが独立するまで所属していた、株式会社GAINAXでした。旧劇場版に関しては、株式会社Production IGも制作に関わっていますね。

▲公式サイトが見つからなかったのでWikipediaです。失敬。映像本編はNetflixで見れます。

 そして最後に、カドカワコミックス・エースから発刊されている「新世紀エヴァンゲリオン」も挙げておかねばなりません。全14巻、作者は貞本義行氏。作者の名から取って、貞本版と呼ばれる事が多い作品です。こちらはアニメ版の公開に先駆けた1994年から『少年エース』で連載が開始され、2009年に『ヤングエース』へと移籍。2013年に連載を終了しました。

 先に謝罪しておきたいのですが、筆者自身は貞本版エヴァを全巻読破しておりません。出来る事なら単行本で全巻揃えたいのですが、何しろ価格が高騰しているもので。愛蔵版を書店で見かけては購入して集めている段階です。ですので、ここからお話しする内容は基本的に映像作品に偏った内容である事を予めご了承ください。ただ、集めた物を読んでいる段階ではありますが、一つ間違いなく言えるのは貞本版の碇シンジは他の映像作品と性格が違う、という事でしょう。それがどのように働くのかはいざ知らず。読了後にまた書くと思います。


 さて、お待たせしました。ようやっとの本文を。「序」である今回は、「エヴァンゲリオン」というシリーズに対する私の考え方についてお話しさせてください。


 話は一旦今年の春頃に遡ります。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の舞台挨拶において、庵野監督ご本人が「エヴァはロボットアニメだ」という趣旨の発言をされ、ファンが騒然とする事態がありました。しばしば用いられる、「エヴァンゲリオンの正式名称は汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオンであるから、あくまでエヴァはロボットアニメではない」というネタとしても愛されてきた決まり文句。これに対する公式からのちょっとお茶目で斜め上なアンサーは、ファンを沸かせるには十分でした。

▲例のインタビュー。 

 しかしこの時、私はこのファンの騒動に乗っかりながらも、先の発言において全く別のベクトルでショックを受けていました。というのも、私はエヴァンゲリオンをロボットアニメではなく、根底の所ではヒューマンドラマとして解釈していましたし、公式もそのつもりで作っているのだろう、と思っていた節があるからです。

 勿論、エヴァンゲリオンという作品がロボットアニメ的側面を孕んでいる事は間違いありません。

 「どこからか飛来する謎に包まれた敵「使徒」と、それに対抗する人類の組織NERV。使徒に対抗できる手段唯一の手段はNERVが所有する兵器、エヴァンゲリオン。しかしそのNERVも決して一枚岩ではなく、実態は人類補完計画を推し進めるべく暗躍する組織だった。」

 この設定をロボットアニメのものではない、と言い張るのは難しいでしょう。けれども、これらの設定自体はあくまでシナリオを進めるためのものであって、エヴァンゲリオンという作品そのものの根幹には関与していないのではないか、と私は思うのです。もしくは舞台装置や小道具的であるとさえ言っていい。こういった書き方は、エヴァンゲリオンにおける設定の考察はその作品の本質を捉える役には立たないという取られ方をされかねないので、ここらで黙りますが。そう取られる事は本意ではありませんし、私も設定面における考察をする事は好きなので。

新世紀エヴァンゲリオン | 新世紀エヴァンゲリオン Wiki | Fandom

▲素晴らしい有志Wikiです。沿革や設定についてより深く知りたい方はどうぞ。 

 しかしながら、くれぐれも私の解釈と断ってはおきますが、私にとってのエヴァンゲリオンとは、主人公である碇シンジによる他者との邂逅や離別、そしてそれらを通しての成長を描いた作品、という形に帰結します。これらを描きつつ、エンターテイメントであるアニメ作品として昇華させるにあたってのファクターとして必要だったものが、エヴァンゲリオンという兵器やNERVの陰謀だったのではないか、と。だからこそ、あくまで私は設定を小道具と考えています。


 さて、エヴァンゲリオンをヒューマンドラマとして捉えるのならば、私達はその痛々しい程に丁寧な不安定さや弱さを描いた心理描写に目を向けねばならないでしょう。主人公碇シンジの打たれ弱さや、惣流・アスカ・ラングレーの承認欲求、葛城ミサトの欠落した父性探し、そして何より、碇ゲンドウの喪失との対峙。ここに挙げたものはほんの一例に過ぎません。つまり、登場人物各々が各々なりの弱さや問題を抱え込んでいる訳です。これこそが、私がエヴァンゲリオンを好む大きな理由と言えます。流石にこれ程に人間性が拗れた人達が一堂に会する事は少ないものの、誰しもが何かしらを抱え込んでいる、という状況自体はかなりリアルじゃないですか。これは私がエヴァンゲリオンに教えて貰った大切な事だと思っています。だからこそ、他者に対する配慮や優しさを欠く事は避けなくてはならない。エヴァンゲリオンは人との関わり方の教科書です、私にとってはね。

 

 ヒューマンドラマとしてのエヴァンゲリオンにおける、人と人の触れ合いを如実に表す要素として、「Absolute Terror Field(絶対不可侵領域)」ことA.T.フィールドのお話もしておきましょう。

 新世紀エヴァンゲリオン第弍拾四話「最後のシ者」において、渚カヲルからA.T.フィールドは心の壁だ、という説明が為されます。

そう、君たちリリンはそう呼んでるね

何人にも侵されざる聖なる領域

心の光

リリンも分かってるんだろ?

A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁だという事を

出典:渚カヲルの名言・名シーン・名セリフ集 : みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン

 これまではロボットアニメにおける演出の一環として用いられてきた謎のバリアが、ここに来て突然心理的な物としての要素を持ち始めるのです。それと同時に、この言葉を「戦闘描写における両者が傷つかない為のお約束的設定」としてだけではなく、「人が心に持っている触れられたくない領域を守る為の心理的障壁」といった意味で取る事が可能になります。この単語が劇中で持つ意味についてより深く掘り下げてお話をすれば、当然作中において人が人の形を保てている事や、人類補完計画など、作品の根幹設定にも踏み込まなければならなくなっていくでしょう。しかしながら、今回はあくまでヒューマンドラマ的要素のみに留めるつもりなのでそこらの話はまた今度。

 話を戻します。今更ネタバレを書いても然程ダメージにはならないだろうと踏んで書きますが、後者の意味としてのA.T.フィールドは『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、碇ゲンドウ碇シンジが対話するシーンではっきりと用いられました。息子である碇シンジという存在が恐ろしかった碇ゲンドウは、彼との対話の際、その恐怖をA.T.フィールドという形で展開するのです。この描写はあくまでアニメ的な物ではありますが、現実世界においてそれに近い事はしばしば私達も行っているでしょう。実生活で出会う得体の知れない他者に対して、自身の弱さや根幹的部分を曝け出したくない。そういった時に私達は例えば話し方であったり、表情や態度であったり、様々な形で相手を拒絶します。この行動こそが、劇中で言われる所のA.T.フィールドそのものな訳です。どうでしょう、案外日常的にやっていませんか?この様な対人関係における普遍的要素を設定に、それも根幹部分に関わる物として取り込んでいる点も、私がエヴァンゲリオンをヒューマンドラマとして捉えている所以です。

A.T.フィールドについて、作中でしばしば用いられるヤマアラシのジレンマと関連して書かれている記事です。お読み頂ければ造詣が深まるかと。


 随分と長々と語ってしまいました。当初の予定ではここらの後書きに一枚映画の半券でも貼って「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」なんて事を添えて締めるつもりだったのですが、3000字やそこらでこのシリーズについて書き切るのは些か自分の大事な作品に対して失礼な気がしてきたもので。ですから、うんざりする程にもっと書きます。

 今回「序」と銘打ったからには、今後もしばしば「破」や「Q」などのシリーズを更新する予定ではあります。それがいつになるかはさておき、全て書き切る事でようやく『エヴァンゲリオン』という作品群とお別れができそうなので。暇な時にでも読んであげてください。

 それでは皆様、良き日々を。